LOGIN「東堂を呼べ」 優は低く言った。 その声には、迷いがなかった。 橘は一瞬だけ目を見開いた。 その優の口から聞くのは、事務所設立以来、初めてだったからだ。「……本気、ということですね」「ああ」 短い返事。 だが、その一言に込められた決意の重さを、橘は理解していた。 優はこれまで、どれほど腹立たしいことがあっても、表立って誰かを潰すようなことはしなかった。 自分が社長である以上、感情だけで動いてはいけない。 それが優の信条だった。 だが今は違う。 ひかるの命が狙われ、水谷が刺され、そして自宅まで監視された。 それでも相手は姿を見せない。 まるで優がどこまで耐えられるのかを試すように、少しずつ、少しずつ大切なものを削ってくる。 もう、待っているだけでは守れない。 橘は何も聞かず、静かに一礼して部屋を出ていく。 東堂修二。 表向きは“危機管理コンサルタント”兼、秘書。 だが実際には——芸能界、政財界、警察内部にまで独自の情報網を持つ男。 そして。 優が俳優時代、唯一「裏」を任せていた人物だった。 夜。 事務所の最上階。 重厚な扉が開く。 入ってきた男は四十代半ば。 無駄のないスーツ。 感情の読めない目。 部屋に入るなり、東堂は微かに口角を上げた。「あなたから連絡が来るとは思いませんでしたよ、藤崎さん」「久しぶりだな」「平和だった証拠です」 短い沈黙。 優は東堂を見つめた。 この男なら、表に出ている情報だけではなく、その裏側まで辿り着く。 だからこそ呼んだ。 自分が知る必要のある真実を、どれほど醜いものでも掘り出してほしかった。 そして優は言った。「女優を一人、調べてほしい」 東堂は即座に答える。「雪城沙羅ですね」 優の目が鋭くなる。「……なぜわかった」「最近、“彼女の周囲だけ”妙に事故が多い」 東堂は淡々と続けた。「もっとも——すべて事故として処理されていますが」 空気が冷える。 優はゆっくり腰を下ろした。「どこまで掴んでいる」 東堂はタブレットをテーブルに置いた。 画面には、一人の女優の写真。 まだ二十代前半。 透明感のある笑顔。 優は、その笑顔を見つめた。 自分もかつて、こんな女優たちと同じ世界にいた。 夢を持ち、必死に演技を学び、いつか主演を取りたいと願っ
昨日の夜の、非通知からの通話が切れたあとも、ひかるはしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。 何も聞こえない。 それなのに、さっきの声だけが頭の中に残っている。『次は、外さないから』 短い言葉だった。 だが、その一言だけで十分だった。 まるで刃物のように、その声が頭の中に残っている。 ひかるはゆっくり息を吐き、震えそうになる手を押さえ込んだ。 落ち着いて。 怖がってはいけない。 恐怖に飲まれたら、相手の思う壺だ。 そう自分に言い聞かせる。 けれど、何を恐れればいいのかさえ分からない。 相手は自分を殺したいのか。 苦しめたいのか。 それとも、もっと別の何かを望んでいるのか。 事故の直前に見た沙羅の姿。 病院で聞いた言葉。 白い花。 脅迫電話。 そして水谷まで傷つけられた。 ひかるの周囲から、少しずつ何かが壊されている。 なのに、相手の目的だけが見えない。 それが何より怖かった。 ——次は、誰? その考えが浮かんだ瞬間。 ひかるの背中に冷たい汗が流れた。 自分なのか。 優なのか。 水谷のように、自分のそばにいる誰かなのか。 分からない。 だからこそ、逃げる場所さえ分からなかった。 その時だった。 ——ピコン。 突然、スマートフォンが鳴った。 新着メッセージ。 送り主は表示されない。 ひかるの胸がざわついた。 開かなければいい。 そう思った。 けれど、見なければ、知らなければもっと怖い。 震える指で画面を開いた瞬間、ひかるの呼吸が止まった。 そこに表示されていたのは—— 一枚の写真。 雨の夜。 アスファルトに倒れている女性。 頭から血を流し、周りには人だかりができていた。 白いヘッドライトの光。 ぼやけてはいる。 それでも、それが誰なのかは一瞬でわかった。「……私……」 事故直後の写真だった。 喉が締めつけられる。 あの夜。 あの白い光。 濡れた道路。 逃げようとしても動かなかった足。 そして、身体を襲った衝撃。 忘れようとしていた記憶が、一枚の写真によって無理やり引きずり出される。 誰が撮ったのか。 なぜ持っているのか。 事故現場にいたのか。 ずっと自分を監視していたのか。 思考が追いつかない。 次の瞬間、またメッセージが届く。
朝の空気は静かだった。 あまりにも——静かすぎた。 FJエンターテインメントの廊下を、橘が早足に進んでいる。 いつもなら、どんな緊急事態でも冷静さを失わない彼女が、今朝ばかりは足音を隠す余裕さえなかった。 ノックも忘れ、社長室の扉を開けた。「社長!!」 優が顔を上げる。 橘が取り乱すことなど、まずない。 その異様さだけで、ただ事ではないと理解した。「どうした?」 短く尋ねた声は、いつもと変わらなかった。 だが、書類から顔を上げた優の胸には、説明のつかない不安が走っていた。 ここ数日、沙羅の動きは明らかに変わっている。 五年前の記録は不自然な形で失われ、ひかるの身には脅迫電話が届いた。事故は偶然ではない。そう確信し始めた矢先だった。 嫌な予感がする。 何かが起きた。 しかも、自分が知らないところで。 橘は息を整える間もなく言った。「水谷が……刺されました」 空気が、凍りついた。 優の瞳から温度が消える。「……誰だ!?」「まだ警察が——」「違う」 優は遮った。 声が低くなる。「誰を担当していた?」 橘の喉が小さく動いた。 答えを口にすることが、事態を決定的なものにしてしまう。そんなためらいが、彼女の表情に一瞬だけ浮かんだ。 そして―――。「久遠ひかるです」 一瞬。 優の世界から音が消えた。 ひかる。 その名前が、優の頭の中で何度も繰り返される。 彼女に何かあったのか。 また、あの女が。 まさか、今度こそ——。 考えがそこまで及んだ瞬間、胸の奥を冷たい手で握り潰されたような感覚に襲われた。 椅子が後ろへ倒れる。 優はもう立ち上がっていた。「場所は!?」「中央総合病院です。命に別状はありませんが——」 最後まで聞いていない。 命に別状はない。 その言葉が耳に入ったのかどうかさえ、自分でも分からなかった。 知りたいのは、水谷の容体だけではない。 ひかるは無事なのか。 怪我はしていないのか。 今、どこにいる―――?。 誰かが彼女のそばにいるのか。 頭の中に疑問が次々と浮かぶ。けれど、どれひとつ答えがない。 その空白が、恐ろしかった。 優はすでに部屋を出ていた。 エレベーターを待つ時間すら惜しい。 階段へ向かう。 一段飛ばしで駆け下りながら、胸の奥で黒い感情が膨れ上
ひかるが部屋を出ていったあとも、優はしばらくその場から動けずにいた。 静かに閉じられたドアを見つめたまま、彼女が最後に見せた真っすぐな瞳を思い返していた。 ——主役は絶対に譲りません。 あの言葉には、恐怖に屈しないという意志があった。 事故に遭い、命の危険にさらされ、今もなお心に深い傷を抱えている。 それでも、ひかるは自分の足で立とうとしていた。 守る必要などないのかもしれない。 そんな考えが一瞬、頭をよぎる。 いや——違う。 守る必要がないのではない。 彼女は、誰かに守られるだけの女優ではないのだ。 どれほど傷つけられても、自分の人生を他人に明け渡そうとはしない。恐怖に震えながらも、再び光の当たる場所へ戻ろうとしている。 その強さを、優は誰よりも知っているはずだった。 だからこそ、許せなかった。 その強さを試すように、命まで奪おうとした人間がいることが。 優は小さく息を吐き、デスクの内線ボタンを押した。「橘、すぐ来てくれ」 ほどなくして、橘が静かに入室した。「お呼びでしょうか」 優は椅子にもたれたまま、低い声で告げた。「五年前の件と、今回の事故。両方調べろ」 橘の眉が、わずかに動いた。「……五年前、というのは」「雪城沙羅の降板劇だ」 その名前を口にした瞬間、優の胸の奥に、言葉にしがたい感情が広がった。 沙羅。 かつて、自分が妻として選んだ女。 華やかな世界で生きる彼女の孤独を理解しているつもりだった。誰よりも高い場所を目指し、弱さを見せまいとするプライドも、他人には見せない不安も、夫だった自分なら分かっていると思っていた。 だが、それは本当に理解だったのだろうか。 優しく微笑む彼女の顔を見て、自分が見たいものだけを見ていたのではないか。 沙羅は確かに、誇り高い女だった。 けれど、誇りと残酷さは違う。 誰かに負けることを恐れるのと、誰かを壊してでも勝とうとすることも、まったく違う。 もし、あの頃から彼女が他人の人生を踏みにじることを厭わない人間だったのなら。 自分は、いったい何年もの間、どんな女の隣で暮らしていたのだろう。 橘は一瞬だけ考えるように視線を落としたが、すぐに頷いた。「承知しました。警察の記録、事故現場周辺の防犯カメラ、関係者の証言も当たってみます」「全部だ。金も手間も惜しむな
言い終えて、ひかるも大きく息を吐き出した。胸の奥に溜まっていたものを、すべて吐き出すような深い呼吸だった。細い肩が、わずかに上下している。自分では平静を装っているつもりでも、身体は正直だった。怖かった。あの日のことを思い出すのも。沙羅の顔を思い出すのも。そして、それを優に話すことも。それでも、言わなければならなかった。もう、逃げたくなかった。優は、そんなひかるを見つめたまま固まっていた。まるで時間だけが切り取られたかのように、動かない。俳優として、社長として、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男。どんなトラブルでも瞬時に判断し、答えを出してきた男。その藤崎優が、言葉を失っていた。目の前にいるのは、ずっと自分が守らなければならないと思っていた女だった。事故に遭い、病室で怯え、白いものを見るだけで身体を強張らせていた。だからこそ、優は思っていた。自分が守る。自分が前に立つ。ひかるは何も心配しなくていい。けれど―――。今、その女は自分の足で立ち、震えながらも真実を突きつけている。守られるだけの女ではない。優は、その事実を改めて思い知らされていた。ひかるは少し俯き加減で、また話し始めた。「仕事では、瞬きをしないでいることを強いられるから、その時も、私……目を開けていたんです」淡々とした声だった。けれど、その言葉の裏にある恐怖を、優だけは理解していた。衝突の瞬間まで、目を閉じなかった。逃げることもできず、迫ってくる車を見続けた。白い光も。雨も。その先にいた人間も。全部。優の胸が締めつけられる。―――怖かっただろう。自分なら、耐えられただろうか。そんな考えが一瞬、頭をよぎる。「おかげで誰の仕業か、わかっちゃいましたけど」ひかるはそう言った。あまりにも静かな告白だった。優の喉が微かに動く。何かを言おうとして、言葉にならない。目の前のひかるは、事故に遭った被害者でありながら、自分自身の力で真実を掴もうとしている。その姿が、たまらなく愛おしかった。同時に、胸が痛んだ。こんなに強くならなければいけなかったのは、自分が守れなかったからではないのか。五年前も。そして今も。自分がもっと早く、もっと強く、ひかるのそばにいられたなら――。そんな後悔が、何度も胸を刺してくる。そして、ひかるは続けた
翌日。空は薄曇りだった。冬の終わりを思わせる柔らかな光が、FJエンターテインメント本社の大きな窓から差し込み、室内を静かに照らしている。優は事務所のデスクで書類に目を通していた。だが、文字はほとんど頭に入っていなかった。昨夜から、何度も同じ映像が脳裏をよぎる。事故現場の白い車。病院で震えていたひかる。そして、雪城沙羅。――あいつは、何を知っている?考えれば考えるほど、胸の奥に重いものが沈んでいく。そのときだった。「社長」秘書の橘がやってきた。低く整った声。無駄のない呼びかけだった。優はペンを置き、ゆっくりと顔を上げる。その視線が橘の後ろへ流れた瞬間――わずかに動きが止まった。そこに、ひかるが立っていた。昨日、現場で崩れ落ちた女優。まだ本調子ではないはずの身体。それなのに、その立ち姿には奇妙なほどの静けさがあった。「ああ」優が短く答える。橘は一礼すると、すぐに部屋を出て行った。ドアが閉まる。その小さな音が、二人だけになった部屋に妙に大きく響いた。優はひかるを見つめる。――無理をしているんだろう。それはすぐに分かった。顔色はまだ白い、だが………それでも昨日とは違う。昨日のひかるには、恐怖があった。しかし、今のひかるには――何かの覚悟があるようだった。ひかるは黙ってソファに座り、そして、落ち着いた声で言った。「社長、昨日はすみませんでした」声に揺れがない。優の胸が、わずかに痛んだ。―――社長………。昨夜と違い、とても距離のある言葉だった。そう思う一方で、どこか嬉しかった。戻ってきた。ほんの少しだけでも、久遠ひかるが、また自分の足で立とうとしている。優は一瞬、その変化を見極めるように彼女を見つめた。それから静かに立ち上がり、ひかるの向かいに腰を下ろす。真正面から見ると、顔色はまだ白い。だが、その瞳の奥には確かな意思が宿っていた。「いや、今のお前の状況を考えたら……俺も、急ぎ過ぎた。悪かった」そう言って、優は頭を下げた。社長が頭を下げる。本来なら、あり得ないことだ。けれど今の優にとって、そんなことはどうでもよかった。ひかるが傷ついた。頭を下げる理由は、それだけで十分だった。ひかるは驚いたように瞬きをする。優が謝る姿を見るのは、いつ以来だろう。五年前の、別れの夜でさえ
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけた
――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな







